繋がっているようで繋がっていない100のお題
093 空を掴み
浮竹が所有している屋敷は、瀞霊廷の中心部からほど遠い郊外にひっそりと建っている。周りは森で囲まれていて、夏だというのに涼しい風が常に吹いているような場所だった。寝起きは雨乾堂で済ませている為に、滅多に帰らないその屋敷は、幼い頃から仕えてくれている老夫婦が住み込みで管理していた。
「一護だ、見知りおいてくれ」
「は、はじめましてっ、黒崎、一護です、」
「まあまあまあ」
共に白髪の老夫婦は、一護の姿を上から下までまじまじと見ると、思わずと言ったように口元を綻ばせた。次いで主である浮竹に視線を移すと、今度は目をうるうると潤ませるではないか。
「ばあやは嬉しゅうございます‥‥っ、十四郎坊っちゃんが、ついに、ついにっ、」
「華やかな噂だけは届いておりましたが、一人も屋敷に連れてこないものですから、坊っちゃんの悪いクセは治らぬものだと諦めておりました‥‥‥いやはや目出度いですなあ」
「おいやめてくれ!」
「悪いクセってなんですか?」
「京楽様と一緒にあっちこっちで娘っ子に手を出しては」
「腹が減ったなあ!! 俺は腹が減ったぞ!!」
一護の視線が冷たい。一応嫉妬してくれているんだと思う、決して軽蔑などではないと浮竹は思い込むことにした。
「っつ、疲れただろう? さあ入ってくれっ、あぁ我が家はやっぱりいいなあ!」
「どスケベ」
一言放つと、一護は老夫婦に促されてさっさと屋敷に入っていった。とんだ伏兵がいたものだと浮竹はしばらく呆然としていたが、気を取り直して慌てて後を追った。
一週間の夏休暇が始まった。
浮竹は事前に同行者がいると伝えていたが、それがまさか恋人とは思わなかった老夫婦は、一護の為の部屋をきちんと用意していたらしい。しかし一護の正体を知るや、二人をそのまま浮竹の自室に案内すると、意味深な笑みを浮かべて去っていった。今夜は布団が一枚に違いないと浮竹は確信した。
「ここが浮竹隊長の部屋‥‥」
一護はきょろきょろと室内を見回しては、何が珍しいのか壁やら柱やらに見入っていた。
「兄弟が多いって聞いたことがあるけど、今日はいないんですか?」
「え? あ、あぁ、皆、独り立ちしてそれぞれ暮らしている」
しかし一護以上に落ち着かないのが浮竹だった。一護が自宅にいるのだと思うと、それだけで心臓が忙しなく鼓動を打つのだ。
「一応、俺が長男だからな。屋敷は受け継いたんだが、死神になってからはあまり帰っていないんだ」
「ふーん。‥‥‥なあ、浮竹隊長」
「っな、なんだ!?」
思わず大声を出してしまった浮竹は、誰が見ても明らかに動揺していた。一護が不思議そうな顔をして瞬きを繰り返している。
「‥‥‥座ったら?」
そう言われて、浮竹は今の今までずっと立ちっぱなしだったことに気がついた。荷物を部屋の隅に置き、のろのろと腰を下ろす。座った位置が、一護がいる場所よりも微妙に離れていた。
「なんか変。緊張してる?」
「いやっ、そんなことはないぞっ」
逆に一護に訊きたい。なんでそんなに落ち着いているんだと。
経験は浮竹のほうが圧倒的にある。しかし、親しい人間、京楽以外の人間をわざわざ自宅に連れてくるのは初めてのことだった。そうか、だから緊張しているのかと納得したが、心臓の音は相変わらず煩かった。
特別なのだ。一護をそう思えば思うほど、普段通りにことが進まない。今までの経験がまるで役に立たないことなど、とうの昔に悟っていたが。
「浮竹隊長‥‥」
俯いて考え込んでいたら、すぐ近くで声がした。顔を上げた瞬間、ふに、と唇に何かが当たる。至近距離で視線が交錯したまま何度か唇を奪われて数秒あと。
「俺、帰ったほうがいい?」
心臓が凍り付いたかと思った。先ほどの積極さが嘘のように、一護は頬を染めて俯き、何やらごにょごにょと言った。
「あんまり目合わせてくれねーし、なんか、はしゃいでるの俺だけで、‥‥っあ、もしかして、どスケベって言ったの怒ってるとか?」
正座して上目遣いに見つめてくる一護に、今度は心臓を鷲掴みにされた。こういう何気ない仕草が計算じゃないところが一護の凄さだと以前京楽が言っていたような。着物の端を弄りながら顔を覗き込んできたりと、一護は男心を掴むのがうまいのだ。まあ何が言いたいのかというと、もう、駄目だ。
「っわ、え、え!?」
「静かに」
驚いている一護を引き倒し、その上に覆い被さる。白い髪がぱさりと音を立てて畳に流れ落ちた。一護の気がそちらに向いた瞬間を狙って唇に吸いつくと、くぐもっと声が上がったが次第に吐息に変わった。一護の指が浮竹の着物の袖をきつく握りしめて離さない。何度も角度を変えては繋がりを深くしていった。
「帰るな」
「ん、」
「帰さんぞ。ずっとここにいろ」
一瞬だけ怯えた表情を浮かべたものの、一護の頬は相変わらず上気して目は潤んだままだった。小さく頷いてくれたようにも見えた。一護は大人しく畳の上に身を投げ出し、恥ずかしそうにこちらを見上げてる。浮竹は視線をしっかりと合わせながら、一護の着物の帯を解いていった。
「この着物を贈ったとき、」
衣擦れの音がするたびに、一護の頬が赤味を増していく気がした。相当緊張しているのが見ていて分かる。
「こうしていつか脱がしてやろうと思っていた。‥‥あぁ、怒るな。男が着物を贈るというのはそういうことなんだ、覚えておくといい」
今度は裾をはらいのけ、太腿を露にした。思った以上に白いそこに唇を寄せる。軽く音を立てて吸いつくと、一護の全身が震えた。両手で顔を覆って息を殺している。抵抗しないのは、それなりの覚悟をしてここに来たのだろう。細い足首から太腿の付け根辺りまでを唇でなぞると、浮竹はまた一護に覆い被さり、手をどかせて視線を合わせた。
「一護」
「ん、‥‥はい、」
「俺のこと、好きか?」
何を今さらと思われるかもしれないが、事前にこれだけは確認しておかないと。
一護は乱れた格好できょとんとしていたが、しばらくして小さな、本当に小さな声で言った。
「‥‥‥好きです。どスケベでも、好き」
最後のはいらんぞ。とは思ったが嬉しかったので微笑み返す。
さて気持ちは確認し合った。二人の間に障害はもう何も無い。あるとすれば着物ぐらいだ。
「一護、脱がすぞ。いいな?」
「‥‥‥‥隊長も、脱いで?」
この子は本当にもう‥‥っ。
畳の上で転げ回って悶えたい。いやしかしそれは後だ。今は。
「脱がしてくれ。二人で脱がし合いっこしよう」
情に濡れた声に、自分でもぞくぞくした。一護の震えた指が必死に帯を外そうとしている。慣れていない様子が浮竹の興奮を煽った。喉を鳴らして唾を呑み込み、襦袢を肩からずり落とそうとした瞬間。
「失礼します。夕餉はどうなさいましょう?」
障子の向こうから声がかかった。二人同時に目を見開き、障子のほうへと首を巡らせる。
嗄れた声の主は翁だった。次いで、どどどっと荒々しい足音がやってきて部屋の前で止まる。小声で言い争った後、気配は消えた。おそらく後からやってきた妻が気を利かせろと言って追いやったのだろう。
「‥‥‥‥耳が遠くなったとぼやいていたからなあ」
はは、と乾いた笑いを零して一護を見ると、うつ伏せになって小刻みに震えていた。髪の間から覗く耳が真っ赤になっている。もう顔を合わせられないと嘆く声が聞こえた。
その夜、二人は別々の布団で眠った。
翌日、雲行きは少し怪しかったものの、昼過ぎから一護と一緒に浮竹の父母の墓参りに出かけた。
一護は屋敷からずっと俯き加減に歩いていたが、森を抜けたところで顔を上げ、浮竹と手を繋いでくれた。恥ずかしさのあまり、老夫婦を見れなかったと一護は反省していたが、相手は年の功、一護の心情など分かりきっている。あまり気にするなと慰めた。ちなみに、浮竹と入れ替わるようにして老夫婦二人は孫に会いにいくと屋敷を離れていった。気遣いが逆に気恥ずかしい。
浮竹家の墓を参った帰り、雨にあった。幸い、屋敷は目と鼻の先。走って帰ったのでそれほど濡れずに済んだ。
「一護、先に風呂に入りなさい」
「‥‥‥隊長が先にどうぞ」
「何言ってる。お前が先に」
「そっちこそ。体弱いんだから、冷やしちゃ駄目だって」
なぜか頑なに拒む一護が不思議だったが、押し問答していても仕方ないので先に風呂に入ることにした。
それほど時間をかけず風呂から上がったあと、そうだ一緒に入ればよかったんだと後悔した。部屋に戻ると布団が一つ。屋敷を離れる前に敷いておいてくれたのだろう。嬉しい気遣いだが今日も二つなんだと、押し入れからもう一組布団を引っ張り出した。
一護が風呂から上がってくるまで、書物を読んで暇をつぶした。昔、好んで集めていた同じ作家の古い書物が部屋で埃を被っていた、その一冊だ。懐かしさがこみ上げ、いつしか夢中になって読み耽っていた。半分ほど読み進んだところで、一護の帰りが遅いことに気がついた。
女の入浴は長いものだと知ってはいるが、それにしても長すぎる。まさか逆上せて湯船に沈んでいるんじゃないかと心配したところで、部屋の障子が開いた。
「一護、よかった。逆上せていないか?」
「大丈夫、です‥‥」
寝室は、間に一部屋挟んで中庭に面したところにある。一護はひどくゆっくりとした歩調で部屋を横切り、寝室までやってくると、後ろ手に襖を閉めてしばらく何も言わなかった。
「一護?」
「‥‥‥‥覚悟を、決めてました」
燭台一つが照らす部屋では、一護の表情は影になって見ることは適わなかった。浮竹は書物を置き、一護の顔を覗き込もうと腰を浮かした。
「十四郎さん」
下の名前を呼ばれ、浮竹は思わず動きを止めて一護を凝視した。一護は二つ並んだ布団に視線を移し、すぐに手前に敷かれた浮竹の布団の脇に座った。正座して、丁寧に三つ指をつくと。
「あの、‥‥‥俺、俺を、‥‥‥‥っか、可愛がってください!」
その夜、布団は一つで事足りた。
一護の姿を遠目に見つけ、京楽は声を掛けようとしたがやめた。少し伸びた髪を揺らしながら、一護は廊下の先へと消えていった。
「大人っぽくなったなぁ‥‥」
こうも変わるものかと感心しながら歩いていると、前方からやってきた浮竹と目が合った。からかいの種を見つけたと言わんばかりに、京楽はにんまりと笑った。
「やあ、浮竹。休暇はどうだった?」
「久し振りに屋敷に戻った。一護も連れてな」
「そうかいそうかい。で?」
一護を大人にしたんだろう、とにやついた顔で訊いた。てっきり親友は不機嫌になるか動揺するかのどちらかだと思っていた。しかし予想は外れ、浮竹は妙に穏やかな表情で歩み出した。慌てて隣に並び、親友の様子を観察する。先ほど見かけた一護と、どこか同じ雰囲気を感じさせた。
「ちょっとくらい聞かせてくれたっていいじゃないか。一護ちゃんと過ごしたんだろう? どうだった?」
「幸せだった」
心に染み入るような声音だった。京楽は目を見開き、立ち止まる。ぽかんと浮竹の背中を見送りかけて、また追いついた。しかし今度はうまく言葉が出てこなかった。一護と寝室でどう過ごしたかなんて下世話な話、訊く気にもなれないほどに、相手が満ち足りた顔をしているからだ。
「‥‥‥‥あー、っと、なんて言えばいいのかね‥‥‥おめでとう?」
「ありがとう」
「‥‥‥‥お前、男っぷりが上がったんじゃないか?」
前とは何かが違う気がする。浮竹が一護を変えたのなら、一護もまた浮竹を変えたのだろう。
不特定多数の女性と付き合ってきた京楽は、不意に自分のこれまでの人生を考え直してしまった。
「ところで、どこに行くんだい? この先といったら」
「元柳斎先生のところだ」
「山じい?」
「あぁ。お前も来てくれ」
仕草も表情も休暇前と同じ。それなのに、はっとさせる何かを親友から感じとり、京楽はもう一度己の過去を振り返る羽目となった。
もうすぐ夏が終わる頃。浮竹は新たな門出を迎えていた。