繋がっているようで繋がっていない100のお題
094 行き場のない思いが掛ける[後編]
歓楽街、それも深夜。
こんな時間にこんな処をうろついている人間に、ろくな奴はいない。
人相の悪い男達の間をすり抜けながら、修兵は上の空だった。腕に絡みついてくる女がしきりに話かけてくるが、相づちも適当なものしか返していない。
今にも降り出しそうな厚い雲のかかった夜空を見上げ、修兵は大きく嘆息した。通路の所々に掛けられたオレンジ色に光る提灯が、少しだけささくれ立った心を慰めてくれた。
罪悪感はある。あれだけ好きだと言っておきながら、今別の女と一緒にいる。これからやることをやって、朝を迎えて、それで一体どんな顔して会えるというのか。
散々バカだと恋次に罵られた。やり直してこいとも言われた。でも謝るにしても、一護に対してそれはどうしても失礼な気がして、かといってもう一度好きだと告白するのも躊躇われる。
あの日、あのとき、一護を抱かなかった。それだけで、やり直すことなんてもう無理だと分かっていた。
男よりも女のほうが、流魂街は辛く厳しい場所であることは簡単に分かる。女であるということは弱点で、そして武器にもなる。裸に剥いて覆い被さっても嫌な顔一つしなかった一護を思い出して、きっと武器としてそれを使っていたこともあったのだろう。
そう考えて、だったら自分は、一護にとっては御しやすい男の一人に過ぎなかったのかもしれないと。
「やだ、降ってきた」
女の声に空を見上げれば、ポツリと額に雫が当たった。やがてそれが勢いを増して落ちてくる。あっという間に地面を濡らし、外を歩く人々の歩調を速めていった。
どこか適当な宿にでも入ろうかと思ったとき、背後から修兵の肩にぶつかる輩がいた。
「おい、気をつけ」
一瞬目が合った。茶色のそれが、驚きに見開かれる。
交錯したのは一瞬で、ぶつかった相手はそのまま駆けていった。しばし呆然とするも、酷くなった雨脚に女が焦れて修兵の着物を引っ張り、我に帰る。今のが幻だったのではないかと考えて、しかしじんと痛む肩がそうではないと訴えていた。
「‥‥‥っえ、ちょっとっ、どこ行くの!?」
悪いの一言も残さずに、気付けば勝手に足が動いていた。泥が跳ねようが、雨粒が顔を強烈に叩こうが気にならない。
会って何を言うのか、ずっと考え続けた結果、答えは出なかった。それでも今はただ、あの後ろ姿を追いかけたい。どうして雨の中を、こんな時間に、こんな処で、聞きたいのはそれだった。
「一護っ、一護‥‥っ、待てっ、」
叫び声も、雨音に掻き消される。袴でないのが口惜しい。濡れて重くなった着流しが足に絡みついて、一護に中々追いつけない。
そのときオレンジ色が消えた。修兵は驚いて足を止め、雨で曇る正面に目を凝らす。
少し離れた場所で、一護が蹲っていた。
「大丈夫か!?」
駆け寄って声をかければ、一護がのろのろと顔を上げた。
「修兵、さん?」
一瞬の邂逅では気がつかなかったが、一護の頬が腫れていた。そして足には何も履いていない、裸足だった。
「どうしたんだよそれっ、誰に、」
「‥‥‥‥さあ、?」
「さあ、って、」
「何度か、顔を会わせた、ような、‥‥‥誘われて、飲んでたら、二階に連れてかれて、それで、」
記憶を確かめるようにして語り出す一護は、少し酔っているようだった。それでも何があったかなんて、馬鹿でも分かる。
「‥‥‥痛い‥‥」
手で頬を押さえる一護の目は虚ろだ。素足からは血が滲んで、泥と混ざってぐちゃぐちゃになっている。抱き上げようと修兵が手を伸ばせば、一護と視線が合った。
「処女じゃないよって言ったんだ」
「‥‥‥‥そうか」
「うん、そう言ったら、あいつ、どうでもいいって、」
それが普通の男の反応だろう。それにこだわった自分は、最低男のレッテルを貼られたのだ。思い出して落ち込んだが、今は一護の体のほうが大事だった。抱き上げようともう一度手を伸ばせば、一護がぽつりと呟いた。
「‥‥‥‥どうでもよくなんかないのに」
「一護?」
「俺、別にされてもよかったけど、嫌になって暴れたんだ、‥‥くそっ、あいつ、よくも」
ぼんやりとしていた一護の目に光が戻る。けれど酷く危うい光だ。一瞬のうちに燃えて消えて無くなりそうな、そうなる前に、修兵は言っていた。
「俺っ、お前が処女じゃねえって知ったとき、正直ショックだった!」
雨音に負けないように、叫んでいた。
「なんでだよっ、なんで俺の為にとっとかなかったんだよって、お前に腹立ててたんだっ、」
一護の顔を見る。よかった、光はまだ消えていない。
「お前は悪くないって頭じゃ分かってるけど、でも死守しろよっ、俺に捧げてくれよ!」
「‥‥‥いや、それは、理不尽‥‥」
「色々想像してたんだ、初めてはお前、泣くんじゃねえかって、それでも泣きながら俺の名前呼んでくれたら、すっげー興奮するだろうなって、」
言ってて恥ずかしいが、どれも事実だ。自分にとっても、一護にとっても、素敵な思い出にしようと、無い頭をひねって想像を働かせていた。
「それ以外考えてなかったんだよっ、なのにお前、処女じゃねえとか言うしっ、どうしたらいいのか分かんなくなっちまって、だからちっとは俺のことも考えろよな!」
完全な八つ当たりになっていることには、後で気がついた。唖然とする一護の顔がそこにはあったが、吐き出さずにはいられない。
「ずーーーっと! 悩んでたんだっ、もしかしたら俺、お前のことそんなに好きじゃなかったんじゃねえかって、もう訳分かんなくて、それでずっと避けてて、」
誤摩化すように、他の女の誘いに乗った。一護に貞淑を求める傍ら、自分はこの奔放ぶり。一護はそれを少しも詰らない。あの夜と同じ、優しい表情をしていた。
「でも、俺は、やっぱり、‥‥‥今さらかもしれねえけど、‥‥‥お前が好きだ」
一護の反応が怖かった。顔を伏せて黙り込む。酷くなるばかりの雨音が響いて、二人はもうびしょ濡れだ。
そんな雨の中、先に口を開いたのは一護のほうだった。
「どうして抱いてくれなかったんだろうって、俺もずっと考えてた」
雨音に負けてしまいそうな小さな声だった。
「でも、そっか‥‥、色々と、考えてくれてたんだ」
一護はほっとしたように息を吐き出すと、立ち上がろうとした。しかしすぐに体勢を崩し、修兵は慌ててそれを支えてやった。
「いてて‥‥、そういえば、裸足だった、」
血が滲んで、雨で流れていた。その痛々しい様子に見かねて、修兵は問答無用で一護を抱き上げる。一護は驚いた声を上げたもののしがみついてきた。
「ちょっと遠いけど、俺んち、来るか?」
「‥‥‥風呂、貸してくれるだけ?」
「まあ、うん、たぶんそれだけじゃ、済まねえだろうけど、」
語尾を濁して言ったものの、その意味が分からない筈は無い。一護は考え込むように俯いていたが、ぱっと顔を上げると言った。
「処女じゃないけど、いい?」
「‥‥‥‥‥すっげえ悔しいけど、抱きたいから、いい‥‥‥‥いや、ほんと、ムカつくけどっ」
自分の顔がどんなものかは分からないが、一護はきょとんとして、それからぷっと吹き出した。久し振りに見る笑顔に、柄にも無く泣きそうになって、修兵は誤摩化すようにくしゃりと笑った。
目が覚めて、最初に感じたのは湿った空気の匂いだった。
まだ降っているのだろうかと耳を澄ませば、わずかに雨音が聞こえてきた。それでも昨夜に比べれば、だいぶ雨脚は弱まったようだ。室内には明るい陽が差している。
ぐっと伸びをして、隣を見る。身体を丸めて眠る一護がいた。
幾分幼い寝顔を眺めていると、ついつい手が伸びてしまう。頬を指でつついたり、髪を優しく梳いてやる。そのたびに一護が小さく反応して、そのあどけない表情に修兵の頬は緩みっぱなしだった。
「一護」
ぐっすりと眠り込む一護に起きる気配は無い。けれども男の部屋で安心しきって眠る一護が愛しくて、もう少しこのままでもいいかと思ってしまう。
腫れた頬に手を当てて、そう得意ではない治癒の鬼道を施した。温かい霊圧に、一護の唇が緩む。昨夜は綺麗に洗っただけの足にも同じように施して、労るように撫でてやった。
「んー‥‥‥」
鼻にかかった声を上げて、一護が寝返りを打つ。裾が捲れ上がって、太腿が晒される。そこに視線が集中し、修兵の頬に朱が差した。女を知らない子供の頃のように、動悸が激しくなる。
「一護、一護ーっ!」
後ろから抱きしめて、頬や髪に乱暴に唇を押し当てた。
隊長達には及ばないが、永い時を生きてきた。恋愛に対してはとうの昔に冷めていて、どこか達観していたところもある。
それが今、初めての恋のように落ち着かない。昨夜もこうしてはしゃいでいた気がするが、一護に呆れられなかっただろうかと心配になった。
ぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめていれば、一護が薄らと目を開けた。
「‥‥うるっせえ‥‥」
下から不快そうに睨まれた。可愛らしい寝顔とは大違いのそれに修兵が謝ると、一護はふんと鼻を鳴らした。一護の寝起きは危険、と脳に刻み込んで、修兵は大人しくすることにした。
「修兵」
「っえ、」
「六時になったら、起こして」
ちゅ、と唇に何かが当たって、修兵は呆然とした。一護は既にすうすうと寝息を立てて眠っている。
あまりにも自然な動作に体も思考も固まった。目の前の置き時計は六時半を指していたが、あんなことをされて今すぐに起こすことなんて出来る筈が無い。
今度はそっと腕を回して抱きしめる。一護の寝息を聞いていると、修兵の瞼も次第に重くなってきて、怒られると分かっていたが、温もりを前にしてはどうしても抗いきれなかった。
離れないようにぴたりと二人はくっついて、そして眠りについた。