20題の日常恋愛活劇

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  03  


 浮竹隊長。
 尊敬していた。憧れていた。
 海燕とは違う、どこか遠い人。けれどとても気安くて、よく声を掛けてくれた。
「浮竹隊長、大丈夫ですか?」
 体の弱い人だった。血の気の無い顔で床に臥せっていることが多かった。
 その日は調子が良いと言って起き上がっていたが、すぐに咳き込んで少量の血を吐いた。
「すまん、背中を、擦ってくれるか」
「はいっ」
 書類を置くと慌てて近寄り一護は言われた通りに背中を擦った。病弱とは思えないほどにその背中はがっしりとしていて驚いたのを覚えている。
 病人を相手にしたことなどなくて一護は戸惑った。とにかく良くなれと念じながら何度も背中を往復させる己の手に集中した。だから油断していたのだ。いや、油断も何も浮竹に対して警戒心など欠片も抱いていなかった。
 気付けば、腕を引っ張られ布団に押し付けられていた。
「浮、」
「一護」
 いつもの”黒崎”、じゃない。
 名前を、呼ばれた。
「‥‥‥‥ぅ、あ、」
 何かを言おうとしたが言葉とは言えないものだった。ただただ動揺して何がどうしてこんなことになっているのか理解できなかった。
「一護」
 苦しそうな声だった。自分の名前がそんなふうに呼ばれるのを一護は初めて聞いた。
 それからこれは何かの間違いなのだと言い聞かせた。きっと自分がバランスを崩して勝手に布団に転がってしまったのだ。だから、早く起き上がらないと。
「‥‥‥‥‥浮竹、隊長、」
 けれどどういう訳か体が動かない。自分の両肩の上には浮竹の手が重ねられていて、それが下へ下へと押さえつけてくる。体が柔らかい布団に深く深く埋もれていって、そこで初めて一護の唇が戦慄いた。
「‥‥‥‥ぃ、いや、」
「怖がらないでくれ」
「冗談はっ、」
 冗談だと思った。だから笑ってやめてくれと言おうとして、しかしそれは無様にも失敗した。
 この空気が、浮竹の目が、冗談な筈は無いと自分でも分かっていたのだから。
「一護‥‥‥‥」
「ぅ、わ、あ、」
 すべてがスローモーションだった。
 浮竹の白い髪が肩から落ちる瞬間も、瞬きしている動作さえも、すべてすべてはっきりと己の目に焼き付いてしまった。
 それから感じる他人の唇。乾いたそれが重なってきて、初めての感触にぞっと肌が粟立った。
 背中がぶる、と震え寒くはないのに寒くて仕方なく、心臓が故障したかのように最初の一回が大きく鳴った。それからやけにゆっくりと、けれど普段よりも音の響く鼓動が耳の奥からやたらに存在感を訴えてくる。
「ひぅっ」
 ざらりとした感触に咄嗟に顔を背けようとしてもびくともしなかった。浮竹の指が一護の顎を固定して、執拗に唇を重ねてきたからだ。
 唇を引き結んでも顎を掴む指に力を入れられればたやすく開かされた。そして浮竹の舌で口内をぬるりと舐められて、ようやく抵抗しなければと一護の手足が動き出した。
 それなのに、すぐさま体は凍り付いた。
「‥‥‥ぁ、あっ」
 血だ。
 血の味だ。
 浮竹が吐いた血。それが舌を介して伝わってくる。抵抗しようなんて気持ちは一瞬にして萎えてしまった。このまま自分が全力で暴れたら、この人が死んでしまうかもしれない。
 後からは思えばそんな筈は無いのに、このときの一護は彼を、浮竹を心の中ではまだ信じていたのだ。
「‥‥‥‥愛らしい、一護」
 浮竹だけは自在に動き、大人しくなった一護の唇を好きなように愛撫した。舌で口内を余すところ無く舐め上げられて、ときには長い指を差し込まれ蟲惑的になぞられた。口の端から零れた唾液を丁寧に舐めとられたとき一護の強く瞑った眦から涙が出た。その涙さえも、同じように舐められた。
「んん、あぁ、‥‥‥‥‥はぁ」
 やっと解放されたときには舌が痺れて感覚は無くなっていた。血の味も互いの唾液で薄まり今は何の味もしなかった。
「‥‥‥‥‥っ、」
 空気を求めて喘ぐように息を整えようとしても少しもうまくいかなかった。悲しさのどん底から這い上がろうにも涙が後から後から溢れ出て、まるで首を絞め上げられているような苦しさに増々涙が止まらない。
「謝らんぞ」
 その言葉に一護の全身が震えた。罪悪感など微塵も無い、それなのにどこか傷ついたような、その声に。
 布団に突っ伏して泣き続けていると、無防備な背中を撫でられた。最初咳き込む浮竹に自分がそうしたように、今度は浮竹が何度も背中を撫でてくる。
 優しい浮竹隊長だった。
「‥‥‥‥一護っ」
 逃げるように一護は隊長室を飛び出した。途中、ルキアや海燕に呼び止められたが聞こえない振りをして駆け抜けた。
 そしてどこかの隊舎の寂れた裏庭で、日が暮れるまでひっそりと泣いた。








 思い出すのは湿った土の匂い。
「起きたか」
「‥‥‥‥俺、眠ってた?」
「少しな」
 阿近は少し笑って一護が起き上がるのを手伝った。
「異常は無い」
「そう」
 ほっと息をついた一護を見て阿近は複雑な心境をそのまま眉根に乗せた。
「毎度毎度、不安な顔をして俺のところに来るくらいなら相手の男を連れてこい。俺が殺してやる」
「物騒だな」
 それにきっと無理だ。
 そう言って一護はまだ眠いのか目を押さえ首を振った。
 最近痩せたように阿近は思う。肩を抱けばやはりそうだと確信した。診察台に座る一護の顔を覗き込み、伺うように視線を合わせた。
「いいか?」
「ん」
 ゆっくりとした動作で唇を重ねた。本当に一瞬、くっつき離れる。
「もう一度?」
「いいよ」
 ゆっくり、押し付けるのではなく包み込むように阿近は口付けをした。一護に苦しい思いをさせないよう悲しい思いをさせないよう、考えるのはそんなことばかりだった。
 ほんの少し、体重をかければ一護は大人しく体を診察台へと倒していった。すばやい動作で自分も診察台へと上ると阿近はただひたすらに一護の唇に没頭した。
 死覇装の袷から手を忍び込ませても一護は抵抗しない。むしろうっとりと目を瞑り、感じるところへと触れられる度に気持ち良さげに体を捩っていた。
「はぁ、‥‥‥‥っぷ」
 喘いでいたかと思えば一護は突然声を上げて笑いだした。
「笑うな」
「だって、」
「まったく、誰の為だと思ってる」
 あまり感情を出さない阿近が笑われて不機嫌そうな視線で一護を睨みつけた。その手には避妊具が握られている。懐からそれを取り出す阿近を見ると、一護はいつも笑ってしまうのだ。
「あんたがいつもそんなの持ち歩いてると思うと、おかしくって」
「男の義務だ」
「うん、‥‥‥‥嬉しい」
 そう言って一護は阿近の逸り勃った男の部分へと手を伸ばした。技術開発局の白い装束の上からそっと形を確かめるように押されて阿近は息を詰めるが、同時に虚しく思った。
 ついこの間まで一護はこんなことができる人間ではなかった。一護を苦しめるその男に教えられたのだろうと分かって、素直に受け入れることが出来ない。
「いい、やめろ」
「‥‥‥‥ごめん」
「謝るな。嫌な訳じゃない」
 暗い表情になった一護の唇を啄んで阿近は乱れた死覇装を直してやった。
「しないの?」
「あぁ。今日はいい」
 そして額の角が擦れるほどに強く口付けて、阿近は一護を離した。不思議そうに見つめてくる一護に苦笑して診察台から降ろしてやった。
「今日はもう帰れ。困ったことがあればいつでも訪ねてこい」
 優しい力で部屋から出され一護はしばらく動けなかったが、やがて扉越しに礼を言うと歩き出した。








 信頼を裏切られたと当時は思った。
 しかしそれは違う。”立派な浮竹隊長”という像を自分が勝手に作り上げていただけだったのだ。
「俺が憎いか」
 その問いかけに一護は答えなかった。答えられなかった。
 自分のすべてを奪われた後で、何かを言う気にはなれなかった。
「‥‥‥‥憎いのだろうな」
 背後から逞しい腕と真白な髪が伸びて一護の体を抱きしめた。上半身を起こし呆然としていた一護はそれにはっと肩を揺らしたものの、今さら抵抗なんてと諦めて大人しくしていた。
「長く生きてきたが、こんなやり方しかできなかったとは自分でも驚いている」
 項垂れる一護のオレンジ色の髪を撫で、そっと唇を押し当てた。しかし一護は動かない。
「俺はきっと、勘違いしてたんだ」
 喋らない一護の分も浮竹はとつとつと言葉を紡ぐ。一護は聞いているのかいないのか、ただ何も無い一点をぼうっと眺めていた。
「相手のことを思いやるのが愛だと思っていた。自分の気持ちを押し付けてはいけないのだ、とな」
 それの何が違う。
 動かない一護の、心のどこかがゆらりと揺れた。
「だがな、一護。相手のことなど考えていられぬ、思いやってなどいられぬ、そういう激しい愛もあるんだ」
 そして一層強く抱きしめられた。一護はまだ動かない。
「狂愛とでも言うのか。お前には気の毒なことだが、」
 気の毒の一言で済ませられる事態ではないとどちらも分かっていた。分かっていてもどうしようもないと浮竹は言うのだろう。一護は妙に冷めた思考の中で一体何がいけなかったのだろうと考えていた。
「一生離せそうにない」
 肩に顔を埋められて、それから発せられた言葉に一護は静かに涙を流した。
「すまん。‥‥‥‥謝るのは、これで最後だ」








 眠っている間に懐かしい夢を見た。
 阿近と別れ一護は隊舎へと戻った。隊員達が忙しそうに、あるいは思い思いの場所で休憩したりとそこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。
 ただ変わってしまったのは自分達だけだ。
「一護、どこへ行っていたのだ」
「友達のとこ」
「誰だ? 恋次か?」
 一護は少し笑っただけで答えなかった。ルキアの頭をぽんぽんと叩くと一緒に連れ立って歩き出した。
「そうだ、浮竹隊長がお前を呼んでいたぞ」
「分かった。今から行く」
 廊下の分かれ道で一護は隊長室の方へと足を向けた。しかし咄嗟にルキアに死覇装を掴まれ引き戻された。
「一護っ」
「‥‥‥‥? なんだよ」
「あの、えぇと、‥‥‥‥元気か?」
「はぁ?」
 言われた意味が分からず一護は訝しむようにルキアを見下ろした。いつもは勝ち気なルキアの目が今は労るように細められ自分を見上げてくる。
「何か嫌なことでもあったか? 悲しいことでも?」
「別に、無いけど」
「海燕殿も心配しておられた。お前はどうも一人で抱え込む癖があると言っておってな、私もそう思う」
 一護はゆっくりと瞬きをして、それから首を振った。
「悩むことなんて誰にだってあるだろ」
「では、」
「浮竹隊長が呼んでる。俺もう行くからな」
 なおも言い募ろうとしたルキアを振り切って一護は早足で隊長室へと向かった。
 夢の中、ルキアと海燕に助けを求める自分を思い出していた。
「浮竹隊長、お呼びでしょうか」
 障子越しに呼びかけてみたが返事は無い。眠っているのかそれとも死んだか。
 後者を思い浮かべてそれが本当だったら大変なことだと思うのに、けれど暢気にそう考えられる自分に一護は内心で笑った。
「一護、入ってくれ」
 死んでなかったか。
 がっかりしたようなほっとしたような複雑な感情。自分は一体浮竹をどう思っているのか、分からなくなる。
「遅かったな」
「用事で」
「誰のところにいた」
「言う義務が?」
 浮竹は黙った。そんな義務、一護には無ければそして問いただす権利も浮竹には無い。
 だが浮竹に手招きされれば一護は素直に傍へと寄った。
「誰にも触れさせていないな?」
「さあ?」
 触れさせていないどころか抱かれようとしていた。正確にはもう何度も浮竹以外の男達と関係を持ったのだけれど、それは告げるまでもない。浮竹は知っている筈だ。
「一護」
 手を取られ懇願するように頬へと擦り寄せられた。
「起きてていいんですか。眠ったほうが」
「眠ればお前はどこかへ行くだろう? ここにいてくれ」
 手を引っ張られ浮竹が寝ていた布団へと押し付けられた。夢と同じだ。初めてそうされたことを思い出して、そのときの悲しみを思い出すかと思ったがそれは無かった。ただ抱かれるんだ、そう思っただけだった。
「‥‥‥‥ん」
 口付けされて一護は自然に唇を開いた。感じる舌の暖かさにそのまま自分からも絡めようとしたが、次の瞬間驚いたように浮竹を押し返した。
「‥‥‥血を?」
「大したことは」
「馬鹿じゃないのか!? 薬はっ」
 飲んでいないと浮竹が首を振るのを見て一護は慌てて鏡台へと駆け寄り薬箱を手に取った。いつもの薬と常に用意されている水を持って浮竹の元へと戻る。
「飲んで。すぐに横になるんだ」
「大げさだな」
「早くしろよっ」
 どうしてそんなに冷静なのかと一護は苛々とした。それでも浮竹が不味いと愚痴をこぼす薬を飲ませると、四番隊を呼びに行くため一護は立ち上がろうとした。
「待ってくれ。傍にいてほしい」
「そういう場合じゃ」
「何、自分のことは自分が一番分かってる。大したことじゃないさ」
 だが顔色が悪い。一護が口を開きかけると浮竹が意地悪そうな目を向けてきた。
「そんなにも俺のことを心配してくれるのか?」
 その言葉に一護はすとんと腰を下ろした。浮竹の笑い声に内心の苛立ちを隠すことが出来ず、睨みつければもう一度やり直すように唇を重ねられた。
「っあ、ふ‥‥‥」
 感じる血の味に心臓がどきどきとした。初めて口付けされてから一度も血の味がすることなど無かったからか、懐かしすぎる不安が一護を襲う。
 本当に大丈夫だろうか。血を吐いたのに、本当に?
 無意識に浮竹の背中を撫でていた。大きな背中を往復する自分の手はあの日と同じ。治れ治れと念じていれば、やがて浮竹はそっと唇を離し一護の顔を間近で覗き込んだ。
「今日はいつにも増して優しいな」
 夢のせいだろうか。それとも血の味か。
 分からなかった。放っておけばよかったのに、咄嗟に薬へ手を伸ばした自分が一護には理解できなかった。
「そうされると男は馬鹿な生き物でな、自分に都合良く考えてしまうんだ。俺のことを好いているのではないか、そう思ってしまう」
「‥‥‥‥‥違う」
「あぁ」
「ただの、同情だ」
「そうだろうな。だがそれでもいい。俺の傍にいてくれるのならそれで、‥‥‥‥それで、いいんだ」
 相手の気持ちなど慮っていられない。そういう愛もあるのだと言っていた。
 そして自分が浮竹を愛していなくても、浮竹はそれでいいと言う。
「報われない、それも愛だ。愛し愛されることが当然の理だと思っていたが、それは甘い考えだったと俺は今さらながらに思うよ」
 ゆっくりと浮竹は布団に横になった。一護はしばし無言で浮竹を見下ろすと、やはり無言で浮竹の隣に体を滑り込ませた。
「今日はこのまま‥‥‥‥」
「あぁ、眠ってもこうしていてくれるか?」
 一護が小さく頷いて浮竹に体を擦り寄せた。手を重ねれば握り込まれ、浮竹と目が合った。
「愛してる」
「うん」
 自分もそうだと言えないことに、そのとき何故か悲しく思った。
 やがて眠りについた浮竹の寝顔を一護は一心に見つめ続けた。そして、体を起こし軽く唇を重ねた。
「‥‥‥‥‥十四郎さん」
 愛してはいない。
 けれどもう、浮竹以外の男に抱かれるのはお終いにしよう。
 同情などではなく、ましてや愛情などでもなく、ただ心が命じるままに一護はそのとき誓った。


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