20題の日常恋愛活劇
04
知った香りだ。
一護はがむしゃらに動かしていた腕と足を大人しくさせた。
「‥‥‥む、‥‥‥‥」
口は手で覆われている。首は回らないように固定され、背後にいる人物の胸へと押し付けられていた。最初は混乱したが落ち着いて感覚を研ぎ澄まさせてみると、非常によく知った人の香りと気配、それから根拠の無い確信が閃いた。
背後から口を塞がれたときは変態か痴漢だと勘違いしたが、これは単なる悪戯だ。そして一護に対してこういう手を使う人間は一人しかいない。
誰なのかはもう分かった。けれど相手は動こうとしないどころか先ほどから声も出さない。
どうしようか。
とりあえず比較的自由の利く足で背後にいる人物の足を軽く蹴ってやった。すると、ふ、と息をはく音、おそらく笑みだ、それが聞こえたと同時にうなじに何か柔らかいものが押し当てられた。
「‥‥‥‥っ、」
反射で肩が跳ねる。何してるんだと後ろを睨みつけてやったが、茶色い髪がかろうじて見えただけだった。
「‥‥‥っ、‥‥‥‥!」
今度は舌だ。絶対にそうだと思い、足を踏みつけやろうとしたが、一護が踏みにじったのは固い地面だった。
「むぅ‥‥‥っ」
やめろ何考えてる!
ここはどこだ。庭だ。それも五番隊の。
一番偉い奴が堂々と他の隊の死神を襲っていい筈が無い。一護はせめて舌の感触から逃げようと頭を背後にある胸に押し付けた。
どうだ、これでもうできまい。そう思って安心したのがいけなかった。
「っあぁ!?」
今度は逆に首を曲げられた。ぐき、と骨が鳴り、空が見えた。そして逆光に翳る男の顔が見え、それが近づいてきて、重なった。
「ん、」
真上から唇を好きなように食まれる。だがこの体勢は正直疲れるものがあった。それにいつ隊員が来るかも分からないのに何やってんだと、抗議の意味を込めて唇をぎゅっと引き結んだ。
ぱっと見開いた男の目を一護は不機嫌とちょっとした怒りを込めて睨みつけた。知らず不満を表すようにほんの少し唇を突き出していると、それが目に入ったのか男はまた小さく息をはき、そっと指で触れた。
「なに、」
唇に戯れに触れるだけで、そこからは何もしてこない。
「惣右介さん?」
ただ淡い笑みを浮かべるだけで、藍染は声を出そうとしなかった。
おかしい。
いつも平均以上におかしいが今日は特におかしい。それにまだ一度も声を発していない。
どうして。まさか。
「喋れない、のか」
藍染は頷かないし、首も振らなかった。ただ、微笑むだけで。
本人は少しも気にしていないようなのに一護は徐々に不安になってきた。一体これはどういうことだと、初めて目の当たりにする事象に思考がちっとも正常に働かない。
「え、なんで、‥‥‥あ、四番隊っ」
そうだ、四番隊だ。
どうにかしてくれるに違いないと、藍染の腕を引っ張って一護は四番隊へと連れて行こうした。
しかし藍染の体は微動だにしなかった。一護は後ろにつんのめり、その体を藍染が受けとめた。
「おいっ、どこ行くんだよ、」
四番隊には行かず、藍染の向かった先は五番隊、それも隊長室だ。一護は引っ張られるがままに後を着いていった。これが常なら振り切って照れまじりに悪態をつくが、今の藍染を放っておくことはできなかった。
「なあ、何か悪いもんでも食ったのか?」
藍染は無言で首を振った。
「じゃあどうしたんだよ」
無言だ。答えようとしない。
これは何かの悪い病気ではないかと一護は思った。やはり四番隊に連れて行くべきなのだろうが、藍染は腰を上げようとはしなかった。
「どうしたら喋るんだよ」
薄く笑んだまま、藍染はふい、と顔を背け、隊長室から見える庭へと視線を移してしまった。
そのまるで気にしないでくれと言うかのような態度に一護は驚いた。自分がこんなにも心配しているというのに何だその態度とカチンときたが、それ以上にやはり不可解な藍染に焦りが生まれた。
一生このままかもしれない。そう思うと不安がこみ上げてくるし、何より悲しい。
一護は彼の声がとても好きだ。その声に囁かれると胸がざわめき鼓動が跳ねる。優しく名を呼ばれると自然と笑みが浮かぶし、どこか不穏な気配と共に呼ばれると冷や汗が浮かぶ。そして、熱の籠った声で呼ばれると言うことを聞かざるを得なくなるのだ。
そんな声がもう聞けないなんて。
「惣右介さん」
背後から抱きしめ、一護は髪に頬を寄せた。
けれど藍染は動かない。手に手を重ねて欲しかったのに、そうしてはくれなかった。
「惣右介さんっ、」
耳に囁き、唇を寄せた。頬に口付け、髪を優しく梳る。
それでも反応しない藍染に焦燥感を駆り立てられて、一護は無理矢理こちらに顔を向けさせ唇を重ね合わせた。
めったに一護のほうから口付けするなんてことはない。驚き、目を見張るだろうかと思ったが、それは外れた。藍染は相変わらず和やかに目を細めるだけで、変化は無い。
「‥‥‥‥‥っ、」
どうしよう。
この人はどうかしてしまったんだ。
頭を打ったのか悪い病気にかかったのか、はたまた浦原の変な薬を飲んでしまったのかもしれない。
自分に触れてはくれるものの、反応はどこか希薄だ。もしかしたら自分への想いそのものが薄らぎ、消えてしまったのかと恐ろしいことを考えた。
「惣右介さんっ、なあっ、」
再び庭を眺める藍染の注意をこちらへ向けようと一護は悲痛な表情で呼びかけた。それなのに、
「おいっ、こっち見ろってっ、」
興味を失ってしまったかのように視線すら合わせてくれない。
どきどきと心臓が忙しなく活動する。苦しいほどだ。けれど呼吸は不自然なほどに落ち着いていて、一護は顔色を失ってしまう。
これから、自分はどうする。
どうするべきだ。
耳の奥がキィンと痛いほど鳴ったとき、一護は泣きそうな笑みを浮かべた。
「惣右介さん、惣右介さんっ、」
正面から頬を包み込んで不器用に唇を重ねた。そっと近づいて掠めるような瞬間を過ぎると、今度は唇を柔やわと噛んだ。
「好きだ、ずっと、」
ぺろ、と一度舐めて、そして舌を差し入れた。自分がいつもされるように上顎や歯列に舌を這わせて、やがて藍染のそれと絡めた。
「ずっと、一緒にいるから、」
藍染の舌は逃げもしなければ絡めてもくれない。ただ動かないそれを一護は必死になって絡めとった。
頬に当てた手はするりと髪を移動して背中に添えた。もう一方の手はこれ以上は無いというくらいに優しい仕草で藍染の頬を繰り返し撫でる。
「好き、惣右介‥‥‥」
悲しいことだけれど喋れなくても、もういい。ただこちらを見てほしかった。
その為なら何だってする。
だからもう一度、自分を見てほしい。
「‥‥‥‥‥‥‥一護」
「っ、」
声。
切望していたそれに、一護は目の前の男を凝視した。
「惣右介、さん?」
「あぁ、一護」
どこか陶然としたように名を呼ぶと、藍染は細い体躯を抱きしめた。
「すまない」
申し訳無さそうに謝る藍染はこちらを真っすぐに見つめていた。一護の中で耐え難い何かが急激に沸き起こり、衝動のままに抱きしめ返した。
「何だよ、喋んねえし、こっち見ねえし、俺、あんたがボケたのかと思ったじゃねえかっ」
「僕はまだ若いよ」
「心配した」
「ごめん、ふざけすぎてしまったね」
そこで一護は変な顔をした。
そんな一護の表情を、どこか困ったように藍染は見つめ返し、やがて白状した。
「最初はそんなつもりじゃなかったんだ。けれど君がとても心配したように見つめてくるから」
濡れた唇を啄むように重ねてくると、藍染は言った。
「君のほうからあんなに積極的に迫ってくれるなんて思ってもみなくて、つい、ついね? 言いそびれてしまって」
ぽかん、と表情の抜け落ちた顔で一護は固まっていた。
「魔が差したんだ。‥‥‥今までのは、フリだよ」
告白終了。
一護は喋らない。
だが無言で右手を振りかぶると、
「馬鹿野郎!!」
打った。
そして、
「‥‥‥惣右介‥‥っ、」
抱きつき、頬を寄せ、
「一護、」
唇を、重ねた。