すれちがいめぐりあい

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  前編  


 黒崎一護は、当時真央霊術院でも珍しい流魂街出身の生徒だった。
 成績優秀、品行方正、未来の席官候補と教師からは目されていた。しかし友人は一人もいなかった。
「黒崎」
 廊下を歩く一護を呼び止めたのは、同じ組の女子生徒だった。たしか名前は、
「‥‥‥‥‥‥どうも」
「矢胴丸リサや」
 名前を覚えていないことをあっさり見破られて、一護は後ろめたさから視線を逸らす。何の用だろうと思っていると、不意に頬を指でぷにっと押された。
「めっちゃ肌キレーやなぁ、自分」
「は?」
「ま、歩きながら話そか」
 促されて歩き出すと、矢胴丸リサという同級生が隣に並んだ。次は鬼道の実技の授業があるので、修練場まで行かなければならない。
 困ったな、と一護は思った。何を話せばいいのか分からなかった。
「黒崎は、流魂街のどの辺に住んどったん?」
「‥‥‥‥潤林安」
 嘘だった。本当は流魂街の端っこ、治安なんて言葉がお笑いになるくらいの場所に住んでいた。正直に口にすれば馬鹿にされることは分かりきっていたので、一護は用意していた答えを口にした。ただでさえ流魂街出身者は蔑まれる対象だ、住んでいた地区でさらに嘲られるのは嫌だった。
 彼女はおそらく貴族だろう。一護のように教室でひとりでいるところを見たことがなかった。
「自分、人見知り?」
「べ、別に」
「嘘や。さっきから全然人の顔見いひんやん」
 正確には目が見れないのだが、いちいち訂正するのも面倒くさかった。別に困らないし、相手に言われない限りは見なくてもいいだろうと思っている。
「あの、それよりさ、いいのか?」
「なにがや」
「もうすぐ修練場だけど」
「そうやな」
「‥‥‥‥だから、俺と離れて歩かなくていいのかって言ってんだけど」
「はぁん?」
 変な声を出して矢胴丸リサは立ち止まった。一護がそのまま先に行こうとすると、がしっと肩を掴まれる。振り向いた瞬間、強烈な痛みに一護は悲鳴を上げた。



「ほっぺた、抓られたっ」
 赤くなった左頬を押さえ、一護はぐしぐし泣いた。
 あれからめちゃくちゃ怒られて、他の生徒の注目を浴びまくってしまった。矢胴丸リサは、教師が止めに入るまで一護の頬を離さず罵詈雑言。一護は関西弁で怒鳴られたのが思いのほか怖くて、養い親を前にどっと涙が溢れ出した。
「アホとかボケとか、言われて、しば、しばくぞおんどれって、‥‥‥こ、怖かったっ」
「お前が悪いよ」
「なっ、なんで!?」
「その子は怒っていたんだろう? お前と仲良くしたかったのに、離れて歩いたほうがいいなんて言われたから、きっと傷ついたんだ」
 涙の通った跡を指で拭いながら、養父は優しい笑みをつくった。
「明日、謝りなさい」
「できねえよ」
「どうして? お前ならできるさ。それからこうも言うんだぞ、友達になってくださいって」
 告げられた言葉は余計に言える筈が無いものだった。ぐずっていると、学校の鐘が鳴った。養父が行かなければならない時間になったので、一護は渋々見送ることにした。
 ときどき様子を見に来る彼に会えるのは、そう滅多にないことだ。本音ではもっと一緒にいたかったが、そんな素振りは絶対に見せたくない。
「頑張っておいで」
「うん。あの、ち、義父上も」
「十四郎でいいよ」
 去り際、頬を撫でられた。それだけで一護は舞い上がってしまって、午後の授業はよく覚えていない。












 護廷の隊長、副隊長が視察に来る。一限目はその話題一色だった。
「どこの隊の隊長さんやろ」
「さあ」
 内心では、養父だといいなと思っていた。
「一護は誰か好きな奴がおるん?」
「いきなりなんだよ」
「ときどき遠くのほう見て溜息ついとるやん。恋する乙女っちゅうん? 色っぽいわぁ」
「つつくなよ」
 頬を指でぷにぷに押されて、一護は仏頂面を浮かべた。
 思いきり怒られて頬を抓られたあの日以降、二人は友人になった。友人になった分、容赦がない。
「この肌のキレーさといい、恋しとるんは間違いない。ほれほれ言うてみい、この親友のリサちゃんに」
「おっさんみたいだぞ、お前」
 しばらくじゃれていると、前方の扉が開き、教師が入ってきた。静かに、といつもより緊張した教師の声で生徒たちは口を閉じる。
「皆も既に知っていると思うがーーー」
 教師の口上など誰も聞いていなかった。すべての視線が扉に吸い寄せられる。遅れて入ってきたのは、一護もよく知る人物だった。
「一護、あれたぶん八番隊や」
「そうなんだ」
 知っていて敢えて知らないフリをした。そのとき一瞬八番隊の隊長と目が合い、にこりと微笑まれる。女子生徒数人が黄色い声を上げ、教師が厳めしい表情をして黙らせた。
「なんやエロいおっさんやなあ」
 隊長に対して容赦ないコメントをしたリサの隣で、一護はひやりと汗をかいていた。頼むから他人のフリをしていてほしい。思いを込めて視線を向けると、今度はなんとウインク。女子の歓喜の悲鳴と教師の怒声が重なった。
 一護は額を手で押さえ、誰にも知られず溜息をついた。
 その日の授業は恙無く終了した。
 腹減ったーとぼやくリサと一緒に寮に戻ろうとした一護は、不意に足を止めた。
「悪い、先行ってて。忘れ物した」
「待っとくけど」
「探すのに時間かかるかもしれねえから、先行って食堂の席取っといてくれ」
 リサがまだ何か言っていたが、一護は最後まで聞くことなく走り出した。向かったのは教室だった。
「やあ、一護ちゃん」
 扉を開けると、京楽は一番前の席に座っていた。そのすぐ近くに副隊長が立っていて、なぜか一護を凝視してくる。
「未成年との交際は犯罪ですよ」
 とんでもない発言に、驚いたのは一護のほうだった。京楽は苦笑している。
「君、誤解だよ。一護ちゃんは、浮竹が養ってる子供だよ」
「失礼、浮竹隊長のお嬢さんでしたか」
「ごめんね、一護ちゃん。お腹空いてるでしょ。これ、浮竹から預かってきたんだ。受け取ってくれたら行っていいから」
「義父上から?」
 現金なもので、養父の名前ひとつで一護は表情をころころと変えてしまう。きつい顔立ちが一気に華やいだので、京楽の側近は目を瞬いていた。
 京楽が差し出したのは、意匠の凝った小瓶だった。開けてみると、中にはクリーム色の軟膏が入っていた。
「手の肉刺に塗るといいよ。この間会って君の手を見たら、随分とひどかったって心配してたから」
「‥‥‥ありがとうございます」
「うん、伝えとく」
 立ち上がって退出しようとする京楽が、「あ、そうだ」と足を止めた。
「浮竹がぼやいてたから言うけどさ、あいつのこと名前で呼んであげてよ」
「でも、それは、」
「義父上って呼ばれるたび、距離を感じるんだってさ。一護ちゃん、昔は名前で呼んでたじゃない。まあ立場を考えるとなんら問題は無いんだけどさ、浮竹は寂しく感じてるみたいだよ? だから、ね?」
「‥‥‥‥考えておきます」
「うん。あ、僕のことは春水さんでいいからね。おじちゃまでも可」
「はいはい、とっとと行きますよ、おじちゃま」
 部下に引きずられて京楽は退場した。
 ひとりになった一護は、もらった小瓶を握りしめ、しばらく立ち尽くしていた。











 六回生になり、卒業を目前に迎えた時期。季節は春で、桜がちらほらと咲き始めていた。
 校舎の中庭で昼食を広げ、もうすぐここともお別れなんだなと感慨にふけっていた一護に、隣に座るリサが言った。
「一護の好きな男、分かったで」
 食べようと開けた口をそのままにリサを見た。彼女はマイペースに昼食を食べていた。まるでさっき言ったことなど知らないと言うように。
「‥‥‥誰だっていうんだよ」
「浮竹隊長」
 その瞬間、目の前が真っ暗になった。一護、と呼びかける声に何も返せない。箸を投げ出し、一護は両手で顔を覆った。
 どれほどそうしていただろうか。一護は顔から手を離すと、何事もなかったかのように昼食を食べ始めた。けれど目は赤く、何かを必死に耐えているような表情をしていた。
「俺の勝手な片思いだから」
 残りを手早く食べ終えると、一護は立ち上がった。歩き出す前に、リサが腕を掴む。
「なんか勘違いしてへんか? うちは別にあんたと浮竹隊長のこと言いふらすつもりで言うたんちゃうで!」
「俺とっ、あの人、なんて言い方、するなよっ、本当に何にも無いんだからっ、」
「分かったから、ちょお落ち着き」
 周りに視線を配るリサを見て、初めて自分たちが他の生徒たちから注目されていることに気がついた。一護は声を落とし、リサに引っ張られるがままベンチに座った。
「京楽隊長が視察に来たときがあったやろう?」
「‥‥‥うん」
「堪忍な。あんたの様子がいつもと少し違とったから気になって後追ったんや。そしたら話、聞いてしもた」
「そっか」
 護廷で現役の隊長の養子。目立ちたくなかったから名字は名乗らなかった。流魂街出身は本当のことであるし、嘘はついていない。ついているとしたら、自分の気持ちだ。
「リサは好きな人いる?」
「おらん」
 今は勉強が楽しくて、既に決まった護廷の入隊で頭がいっぱいらしい。
 一護は勉強よりも、護廷の入隊よりも、養父のことで頭がいっぱいだった。きっと流魂街で拾われたときから、心の中にはあの人だけが住んでいた。
「俺さ、昔はけっこう本気で考えてたんだ。あの人と結婚したいって。あの人の好む女の人になりたくて色々頑張ったりもしてさ」
 例えばそう、大きな胸が好みだと言うからバストアップに日々勤しんだり、谷間ができるがうたい文句の夢のブラに手を出してみたり。結果は惨敗だったが。
「今思うと滑稽だよな。子供がなに勘違いしてるんだ、って。でもあの頃が一番幸せだった。あの人のお嫁さんになるんだって信じて疑わなかったんだ」
 だから大人に近づくにつれ、冷静になっていく自分が嫌だった。
 いくら血は繋がっていなくても親子同士で婚姻関係は結べない。籍を抜けたとしても、一護の片思いには変わりはないのだ。だったら親子でもいい、どんな形であれ繋がってさえいれば。傍にいられるだけで満足しなくては。
 けれど想いが深まれば深まるほど、傍にはいられないことが分かった。
「ここを卒業したらさ、護廷の寮に入るつもりなんだ」
「一緒に住まへんのか? 一つ屋根の下なんて、絶好の機会やん」
「だからだよ」
 一護は再び顔を手で覆うと、ぽつりと言った。
「襲っちゃいそうなんだ」
 二人の間に沈黙が続いた。リサは一瞬笑おうとしていたが、すぐに引き攣った顔になっていた。
「俺が本気出して襲ったら、もしかしていけるんじゃねえかって思っちゃうんだ」
「いや、いやいやいや、相手は隊長やで?」
「だけど、あの人実は病弱だからよく寝込んでるし、そこを狙って襲えばいけるっ!!」
「ヤる気満々やな」
「だから離れて暮らそうと思ってる‥‥‥」
 高まったテンションも急降下。一護は膝を抱えてそこに顔を埋めた。
 きっとあの人は俺のことを子供としか思っていない。お風呂でばったりというベタなシチュエーションに少しも動じなかった人だ。俺ごときの裸など笑止千万なのだろう。
「とにかくこの気持ちが冷めるまで離れて暮らすしかない。じゃないと俺っ、いつかきっと十四郎さんを傷物にしてしまう‥‥‥っ」
 果たして冷めるときが来るのだろうか。一護自身、分からなかった。
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