蝶が瞬くとき

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  12. 花よ、お前の  

 好きなものが嫌いになった。
 嫌いなものが好きになった。
 好きなものが減った。
 嫌いなものが増えた。
 好きだったものが思い出せない。
 嫌いになんかなりたくなかったのに。





 最近女の格好をするようになった。京楽がやたらと着物や浴衣を贈ってくれる。遠慮してしまうと分かっていてかそれほど高価ではないものだ。だがどれも趣味がいい。
 ルキアの義兄である白哉が顔を付き合わすたびに女らしくしろとしつこく言ってくるのも原因なのかもしれない。死覇装を着ているときは誰から見ても男だが、それ以外では女物の着物を着ている時間がすこしだが増えた。
 今着ているものもそうだ。京楽が似合うよ、と言ってくれた浴衣。深い青に一護の知らない花が散っている。
 女物の浴衣に普段の髪型では合わないと、今は額を出して小さな髪留めで留めている。遊子が嬉しがってしてくれたものだ。髪を伸ばせばいいのに。妹達によくそう言われる。でも戦いの邪魔になるからとそうしていつも誤摩化していた。
 からん、ころん
 下駄が鳴る。いつもは草履だが今は赤い鼻緒の下駄を履いていた。
 からん、ころん
 いつもと違う音。周りに人影はなくただその音だけが響いていた。
 からん
 音が止む。
『一護?』
 一護とともに下駄の音に耳を傾けていた斬月が訝しむ。
「‥‥‥‥痛い」
 足下に目をやると足に鼻緒が食い込んで赤くなっていた。履きなれない下駄を仕方なく脱ぐ。
 どうしようか。このまま裸足で家まで帰ろうか。
『この先に小川があっただろう。そこで足を洗って布でも巻いたほうがいい。血が出ているぞ』
 見下ろすと確かに血が滲んでいた。このまま帰るのは良くないだろう。ばい菌でも入って化膿すれば草履でさえ履けなくなる。
 仕方ない。小川まで我慢して歩こう。下駄がこんなにも疲れるものだとは。一護は世の女性を尊敬した。





 綺麗な水だった。川沿いをよく通っていたが特に気にしていなかったので、こんなにも澄んでいることに一護は初めて気が付いた。
 こんなにも綺麗ならと、一護は着物の裾をたくし上げ下駄を脱ぐと川に入っていった。
『お前は、怪我をしているのだぞ』
(いいだろ少しくらい)
 斬月の呆れたような声に一護は笑って返す。少し風がきついが日差しは暖かい。水面がきらきらと反射して一護を照らしていた。
 こんなことなら妹達も連れてくればよかった。お弁当を作って、今度は三人で来よう。
 水面を蹴って水しぶきを上げる。浴衣に少しかかったが後で乾かせばいい。何が楽しいのか自分でも分からなかったがしばらくざぶざぶと水と戯れた。
 しばらくそうしていたがようやく満足したのか川縁に腰を下ろす。足は水につけたままだ。少し汗をかいてしまった。随分と夢中になっていたらしい。
 ふと、指先に何かが当たった。  
 小さな花だった。
 風に吹かれてゆらゆらと揺れる、白く小さな花。
 なんという花だっただろう。以前にも見たことがある。折れないように優しく触れた。
 なにも考えずに、一護はただそうしていた。
『一護、誰か来る』
 だがその穏やかな時間を邪魔する者が現れた。
 草を踏む音。こちらに近づいてくる。一護は顔を上げずに意識だけを向けた。
 花に触れる手が陰る。
「可愛らしいこと」
 男の声だ。だが聞き慣れない発音をする。
 一護はそれを無視した。知らない人間と話をするつもりは無い。
「あ、その花やのうて君のこと言うたんよ」
 男は勝手に話を続ける。一護は早くどこかに行ってくれないものかと一心にその花を見つめ続けた。だがその男が膝を折って座る気配を感じると、一護は思わず嫌そうな顔をしてしまった。
「寂しいなあ。そんなにその花が好きなん」
 好き。
 その言葉に揺さぶられた。自分は、この花が好き?
 だがそんな筈は無いと即座に否定する。これはただの花だ。
「そんなに好きなら手折ってしまえばええのに」
「違う」
 なぜ言い返してしまったのか分からない。男がやっと答えてくれたとばかりに嬉しそうにする。それを見て、しまったと一護が苦い顔をした。
 仕方なくその男の顔を見ると、にや、と笑い返された。
「やあっとこっち見てくれた」
「なんか用」
 にっこりと笑む銀髪の男。その笑みは一護でなくとも警戒心を抱かせる、どこか不穏さを感じさせるものだった。それに一護はぶっきらぼうな態度で返す。
 だがそんな態度に男は少しも気分を害した様子は見せず、またにっこりと笑った。
 そして折った膝に頬杖をつき、男は一護をしげしげと見つめた。
「さっきと随分雰囲気ちゃうなあ」
「はあ?」
「水遊びしとったときは子供みたいで、花見て笑う顔は女の子、ほんで今は男の子みたいや」
 不躾に言いたいことを言う男に一護は腹が立ってきた。そして随分と前から見られていたことに気付く。この常に笑みを浮かべる顔も気に入らない。
 昔の自分だったら知らない人間をこんなにも近づかせはしなかった。早々に立ち去って、こんなふうに言葉を交わすことなど無かった筈だ。それなのに、いつからだろう。多くの人と言葉を交わすうちに気を許せる友人ができた。友人という言葉にいまだ照れくささを感じるが、共にいると安心できるのは本当だった。
 だからこそ、昔を思い出して心が痛む。
 昔と変わらずにいれば誰かに足下を掬われるようなことはないだろう。誰も近づかせず、傷つくことも無い。だがそれは無理だ。それは嫌だと心が悲鳴を上げる。
 変わりたい。変わりたくない。そんな葛藤をもう何度繰り返したことだろう。こんな思いを抱くことこそ変わった証拠なのかもしれないが、なぜか一護にはそれを認めることができなかった。
 そう簡単に変われるものか。
 頭の奥で、もう一人の自分がそう囁くのだ。
「どないしたん。もしかして気悪うさせてもうた?」
 一護が暗い思いに浸ってしまいそうになったところで男が気遣うように声をかけてきた。その声で一護は我に帰った。
 男はいつの間にか隣に腰を落ち着かせ、一護と同じように川に足をつけていた。ちょうど白い花を二人挟んで座る形となった。その近い距離に一護の警戒心が疼く。立ち上がろうとしたが男が先に謝った。
「堪忍な。ボクの悪いとこや。気に入った子はつい苛めてしまうねん」
 一護は無言で返す。川のせせらぎだけが響いていた。
「違うってゆうたなあ」
 無言。
「この花嫌いなん?」
 川の流れを見つめていた一護がわすかに男に視線を向けた。
 男は二人の間にある花に触れていた。その指先に、くっと力が入る。
「やめろっ!」
 男の手を払う。
 花は大きく揺れたが折れはしなかった。それを見てほっと息をはいた。
「あ痛あ。なんや、やっぱり好きなんやん」
 男が払われた手を撫でながら一護の顔を覗き込んだ。その視線を避けるように一護は再び川の流れに視線を移した。
 上流から流れてきた葉が男の足に引っかかる。それをすくいあげ、男は葉をくるくるともてあそびながら一護の横顔を眺めた。
「君も相当な天の邪鬼やね。好きなら好きってゆうたらええのに」
「好きじゃない」
「好きでもないのに守ったん? そしたらボクがもう一度同じことしても止めへんね」
 その言葉に一護が男を睨みつける。一護の視線に男は持っていた葉で顔を隠すとおお怖、とおおげさに怖がってみせた。そんな仕草にぎゅっと眉を寄せると一護はまた川を眺めた。
「知らない花だ」
 今度は一護から話しはじめた。話というよりは独り言に近かったが、男は黙って聞いていた。
「昔、一度だけ見たことがある。それだけの花だ」
 本当はそこらへんに咲いているような花なのだ。ただ気が付かなかっただけで。周りを見る余裕があれば、いつだって見つけられただろう。
 あの日はたまたま目についた。それだけだった。だがまるで自分の行く手を阻むかのように咲いていた白く小さな花に、一護はカッとした。
 弱いものが嫌いだった。花なんか大嫌いだった。
 踏みつぶす。斬月が嗜めるようなことを言っていたが聞かなかった。
 こんなところに咲いていてどうなるっていうんだ。弱いおまえが悪いんだ。
 本当は何に向かって吐いた言葉だったのか、今なら分かる。
 花の名は、まだ思い出せない。
「ふうん」
 気の抜ける声だ。
 くるん、と男が葉を回した。
「でも、そんなふうにゆうたら可哀想や」
「可哀想?」
「そや。この子が可哀想」
 男は先ほどと違って優しい手つきで花に触れた。
「ボクは君が微笑みながらこの子に触れとったん知ってる。それやのに好きやないなんて言われたらこの子が悲しむで」
「俺、笑ってたのか」
「そら可愛らしい顔で笑とった。ボクには不機嫌そうな顔しかしてくれへんのに、贔屓やわ」
 いじいじと葉を回す。その子供っぽい仕草に一護はわずかに緊張を解いた。
「この花の名前」
「んん?」
「思い出せないんだ。知っていた筈なのに」
 そうだ、知っていた。好きだった、気がする。
 けれどどうしても思い出せなかった。
「僕は花には詳しないからなあ」
「そうか‥‥‥」
 ちょん、と花をつつく。だが花が答えられる筈も無い。
 そのどこか儚げな一護の姿に男が見入っていた。細い目をより一層細めて、まるで眩しいものでも見るかのような表情だったが、一護は気付かなかった。
「思い出せんのやったらまた知ればええやん」
「え‥‥‥」
「せやからそんな顔せんといて。もっかい笑うて」
 もう一度。
 知ればいいのだろうか。
 さあっと風が吹く。花が風に揺れて、まるで頷いているようだった。
「‥‥‥‥そうだな」
「あっ」
 一護は男が持つ葉をぴっと奪うと川に流してやった。それを男と二人、なんとなく見送った。そして完全に見えなくなったところで一護は立ち上がった。
「あ、血ぃ出とるよ」
 忘れてた。一護は手拭を出そうと浴衣の袖を探る。それよりも早く男が手拭を出し一護の足を拭いてやった。
 そういえば、布越しとはいえ自分はいつのまにか触れられるのが少しだが平気になった。肌に直に触れられるのはいまだに苦手だが。
 変わった、のだろうか。
 分からない。違うのかもしれない。
『焦るな』
(斬月)
『少しずつでいい。焦る必要などない』
(少しずつ‥‥‥)
 目を瞑り、頭の中でその言葉を反芻した。
 少しずつ。そうだ、まずは花の名前から。
「これでええ」
 ぱちりと目を開ける。見下ろすと足には男の手拭が巻かれていた。親指と人差し指の間の付け根にも丁寧に巻かれている。これなら下駄を履いても痛くないだろう。
「‥‥‥ありがと」
「どういたしまして。なんなら家までおぶったろか」
「いらねえ」
「そら残念」
 そういえばこの男は誰なんだろう。今さらだが疑問に思った。
 一護に男はにっこりと笑う。
「ボクは君のこと知っとるよ。黒崎一護ちゃん」
「ちゃんづけすんなっ」
 こうして女の格好をするようになってもこの呼び方だけは気に入らなかった。自分には似合わない。
「って、あんた死神か」
「僕のこと知らん?結構有名なんやけどなあ」
 知らないものは知らない。とっとと名乗れと、そんな顔をすると男はようやく自己紹介した。
「僕の名前は市丸ギン。以後仲良うしたってな」

 好きだったものを思い出した。
 花よ、お前の名が知りたい。
 これからも、好きでいたいから。


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