蝶が瞬くとき
14. 優しい貴方
一護を挟んで三人で歩く。
家を出た頃は小さい二人はあっちこっちに歩き回っていたのに、やがてそれぞれが一護の手を握るとそれが気に入ったらしい、ずっとそうしていた。
思ったよりもずっと澄んだ小川を見つけて以来、一護の休みのたびに三人で遊びに行くようになった。
「次はいつお休みがあるの」
「そうだな、何もなければ来週に一日貰えるだろうけど」
「夜一さん連れてきてよ。着物のお礼が言いたい」
夏梨の提案にそうだな、と一護が頷く。
今夏梨と遊子が着ているものも夜一からのおさがりだ。夏梨と遊子は来ればいつも一緒に遊んでくれる夜一にとても懐いている。夏梨にいたっては夜一が遊びにくるたびに喧嘩の仕方を教わっているようだ。
「今日は着物汚すんじゃないぞ」
「うん」
「分かってる」
二人はうんうんと頷いているが、決して目は離さないでおこうと一護は誓った。なぜなら数日前あれほど口を酸っぱくして言ったにもかかわらず二人は揃いも揃って川に落ちたのだから。
いつもの場所に着く。周りに人影はなく川のせせらぎと鳥の鳴き声、木々のざわめく音しかしない。
本当はこういう場所に夜一から貰った着物を着てくるのは躊躇ったが、妹二人にどうしてもと言われた一護は仕方なく着せてやった。
それというのも今日ここで会う人にお礼を言う為だ。妹二人が着物を着たいと一護にねだったのもその人物に見せたいのだろう。
「あっ、いた」
「こんにちはー」
妹二人が駆け寄って行く。石だらけの足場の悪い道を着物姿で走るのだ、二人は案の定つまづいた。咄嗟に一護が手を伸ばすが妹二人を受けとめたのは別の人物だった。
ほっと息をはく。そして一護は居住まいを直すとその人物に向かって丁寧に頭を下げた。
「綺麗だねえ」
遊子が嬉しそうにちゃぷちゃぷと足を川につけていた。
「一姉、魚がいる。食べられるかな」
夏梨は魚を見つけて覗き込んでいた。
一護はあの日のように足だけを川につけて岩の上に座っていた。
「深くなってるところがあるから、気を付けろよ」
「「はーい」」
心配だ。返事だけはいいのだから。
でも連れてきて良かった。一護が休みの日は家で三人いることが多い。ときどき夜一やルキアが遊びにくるが、こうして外出するのは初めてかもしれない。
川に遊びに行くだけなのに、夏梨と遊子は前日から大はしゃぎで寝かしつけるのに一護は苦労した。
これからもこうやってどこかに遊びに連れて行ってやりたい。春になったら海燕から聞いた、桜が綺麗に咲いているところに三人で行こう。
一護がそう考えていたところだった。
ばしゃんっ
「遊子っ!」
ざぼんっ
音のしたほうを見る。だがそこにあるのは大きな波紋が二つ。
『落ちたな』
「ゆ、悠長に言ってる場合かっ!!」
一護は慌てて川に飛び込んだ。思ったよりも深い。夏梨と遊子の姿が見えない。
浴衣が水を吸って重く一護にまとわりつく。体が少しも思い通りに動かなかった。息苦しさにごぼりと息が漏れる。
『一旦浮上しろっ』
(そんな暇、ないっ)
二人の姿が見つからない。あんなに小さいのだ。自分よりもよほど苦しい思いをしているに違いない。
どうしようどうしようどうしよう。
そんな言葉ばかりが頭の中を埋め尽くす。もし夏梨と遊子が死んだら自分は生きていけない。
終わりだ。
その言葉に心臓が凍り付いた。
だが一護の手はただ虚しく水を掻くばかりだった。
(夏梨、遊子、だれか)
助けて
一護の願いが通じたのか。腹に回された何かが一護の体をぐいと上に引き上げた。
「っ、げほっ、」
急に息を吸い込んだ苦しさから一護が咳き込む。そして岸に下ろされた感触に一護がようやく自分が川から引き上げられたことに気が付いた。
妹はどこだ。霞む目で辺りを探す。
「二人は無事だ」
落ち着いた声。ついで咳き込む一護の背を誰かが優しく撫でてくれた。その心配するように撫でられる感触に嫌悪など感じる筈も無く、そして妹の無事を聞かされて一護はふっと力が抜けた。
「お、お姉ちゃん、」
「一、姉、」
二人の泣きそうな声がする。一護は咳き込みながらも腕を伸ばした。その手に夏梨と遊子がすがりつく。それを力一杯に抱きしめた。
妹二人の感触を確かめる。やっと抱きしめることができた。
生きている。たしかにこの腕の中にいるのだ。
「この、ばかっ!!」
腕の中にいる二人がびくりとする。妹二人に対してこんなに声を荒げたことは無い。だが一護はかまわなかった。
「気を付けろって言っただろっ。それなのに、お前ら、お前ら二人が、いなくなったら俺は、」
「そのへんにしておけ」
誰かが一護を遮った。
妹二人は一護にしがみついて泣いていた。
「ごめ、なさ、っ、」
「‥‥‥っ、ごめんなさい」
「もう泣くな。お前達の姉は愛しさのあまりこうして怒っているのだ」
その声に夏梨と遊子が顔を上げて一護を見る。一護がそれに頷いた。
「本当に心配したんだぞ。頼むから、こんな思いはもう二度とさせないでくれ」
一護の優しい声に二人がきゅうきゅうと抱きついてきた。それをまた抱きしめ返して一護は命の恩人にお礼を言おうと振り返った。
随分と背の高い人物のようだ。視線を上へと上げていく。その視線が顔に至ったところで一護は固まった。
「‥‥‥失礼する」
一護の視線にその人物はいたたまれなくなって去ろうとした。
「ま、待てっ」
咄嗟に一護が袖を掴んで引き止めた。二人の視線が合う。
「お礼、まだ言ってない。それに着物も乾かさないと」
一護たちを助けたのだからその人物の着物もびしょ濡れだった。
くちゅんっ、後ろで遊子がくしゃみをした。
ぱちぱちという音が響く。
たき火の前に一護と狛村左陣と名乗った男の二人が並んで座っていた。
「驚かんのだな」
「いや、驚いた」
左陣の姿に一瞬固まったものの、そのまま帰ろうとする左陣の袖を思わず握ってしまっていた。妹二人は一護から見える川の浅い場所で遊んでいる。さっき溺れたばかりだというのに元気なものだった。
着替えを持ってきていてよかった。濡れた着物は今は木の枝にかけて乾かしていた。
「喋る猫とか知ってるから。そのときのほうがよっぽど驚いた」
夜一を思い浮かべる。猫が喋ったことにも驚いたが、その後真っ裸の美女の姿になったのにはもっと驚いた。
左陣はそうか、と低い声で相づちを返すだけだった。
帰ろうとする左陣を一護たち三人が無理矢理引き止めた。左陣が袖を通せるような着替えは無かったが火をおこしたり手拭で水気をふいたりとやれることはやった。
その間左陣は困ったようにされるがままだったが、諦めたのか今はこうして一護と話をしてくれている。
「本当にありがとう。俺だけじゃなんにもできなかった」
一護の無力感の漂う声に、左陣が首を振った。
「駄目だな、俺」
一護が長い枝でたき火をつつく。ぱちりと枝が爆ぜた。
「あいつらの姉貴なのに。護らなくちゃいけないのに」
それなのに自分には何ができた。一緒に溺れることしかできないなんて、なんて情けない姉だ。
「もっと、強くなりたい」
そうしてまたぱちりと枝が爆ぜた。
「強さとはなんだ」
斬り込むような左陣の言葉に一護がはっと顔を上げた。左陣の獣の目が一護をまっすぐと見据えていた。
「傷つける力か」
「っ違う!」
そんなものはもういらない。
今は違う。今はもう誰も傷つけなくていいんだ。
「護りたい」
きゃっきゃっと妹二人のはしゃぐ声が聞こえてくる。その声が聞こえるだけで一護は幸せだった。
「それが強さだ」
「でも、」
左陣が手を上げて一護を制す。
「完璧な強さなど存在しない。人にはそれぞれの強さがあるのだ。お前が持つそれは妹二人を思う強さ。他に、なにがいる」
なにも。
なにもいらない。
だがいらないからこそ護りたいのだ。
思いを察し、左陣は優しい眼差しを一護に向けた。
「次からはもっと気を付ければよい。そして時には助けを求めることも必要だ。誰かに、助けを求めることは恥ではないのだぞ」
助けを求めてそれに応えてくれる手など無かった。誰も助けてくれない。だからいつの間にか助けを求めること自体を諦めていた。
けれど、この人は自分たちを助けてくれた。一護が感謝するように左陣の着物の袖を握る。
「‥‥‥うん。助けてくれて、ありがとう」
「お前は、あの二人の立派な姉だ」
慈しむような声。嬉しかった。
左陣の父親のような言葉に、一護はただただ頷いた。
「そんな格好で走っては危ないぞ」
「えへへ、ごめんなさい」
「ありがと」
つまづいた二人をたやすく受けとめたのは左陣だった。その左陣の前で夏梨と遊子がくるりと回る。
「今日は随分と可愛らしい格好をしているな」
「似合う?」
「ああ」
その親子のような会話に一護は自然と頬が緩まる。今日は左陣にどうしてもお礼がしたいとこの場に来てもらったのだ。本当は家に招待したかったがそれは左陣に断られてしまった。
迷惑をかける、そう言って断った左陣に一護は何も言わなかった。自分たちは左陣を慕っている、他の人間がどう言おうとかまわない。左陣の良さを知っている者が知っていれば、それでいいではないか。
「左陣さん。これ受け取ってくれよ」
一護が包みを差し出した。中に入っているのは着流しだった。
「三人で縫ったんだよ」
ああでもないこうでもないと、なんとか仕上がったのが昨日だった。
「親父にもこんなことしたことないんだ。だから受け取ってくれよな」
一護の言葉を受けて、左陣は大事そうに包みを受け取った。
夏梨と遊子が嬉しそうに左陣にまとわりつく。
「ありがとう」
強くなりたい。
この人が言ってくれたように、強い姉になりたい。
「俺も、ありがとう」
強い姉で、ありたい。